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歴史紀行 10 ⑩ 世界遺産 法隆寺 東院 夢殿


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法隆寺 東院 夢殿

 

 

奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内

 

夢殿のあった場所は、601年 推古天皇9年に聖徳太子が造立した斑鳩宮がありました。
法隆寺創建よりも6年前のことでした。

太子の没後、嫡子 山背大兄王と一族の上宮王家の御所となりましたが、皇位継承の資格もあった山背大兄王を権勢を振るう蘇我蝦夷の子 入鹿によって襲撃され、いったんは逃れますが、太子が遺した【遺言~諸の悪を成すこと莫れ。諸の善を行え】を思い起こし、兵を起こして戦えば勝つかも知れないが、それでは民に迷惑が及ぶと【我がひとつの身をば、入鹿に賜う】と言い残し自ら首をくくりました。

山背大兄王の一族は後を追うように自決の道を選び、上宮王家の血、すなわち太子の血筋は絶たれました。

この殉教ともいえる王家の最期に次期皇位継承の資格者、中大兄王子(後の天智天皇)と臣下、中臣鎌足藤原鎌足)が決起し、蘇我入鹿飛鳥宮で討ち取り、今度は入鹿の父で権勢を振るっていた蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害し、蘇我一族は滅亡しました。

太子と上宮王家の犠牲は、中大兄王子と中臣鎌足による新たな時代、大化の改新を呼び起こしました。

斑鳩宮は上宮王家の滅亡により焼き払われて朽ち果てました。

737年 天平9年、人々に敬慕されていた太子と上宮王家の宮跡の荒廃を嘆いた高僧 行信僧都は、宮跡で太子遺愛の品々を集めて東院に奉納し、さらに739年 天平11年、太子の遺徳を偲ぶ正堂として夢殿を跡地に造立しました。

夢殿は八角円堂の伽藍で、内部には長身の本尊の救世観音像が安置され、これは古くから太子の等身の像とも伝えられていて、夢殿のある東院自体が太子を供養する伽藍であることを示しています。