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歴史紀行 特別編 5 浅羽佐喜太郎 公記念碑


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浅羽佐喜太郎
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浅羽佐喜太郎公記念碑
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常林寺~静岡県袋井市梅山
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クォン・デ候(左)   ファン・ボイ・チャウ(右)

 

浅羽佐喜太郎 公記念碑~常林寺

 

記念碑に記されている浅羽佐喜太郎は、1867年 慶応3年3月、遠江国磐田郡東浅羽村(現在の静岡県袋井市梅山)で生まれました。

浅羽佐喜太郎東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業しました。

 

佐喜太郎は困っている人を見ると助けずにはいられない性格で、貧しい患者からは決して治療費を取ろうとせず、むしろ金銭を施した程で、慈善活動にも熱心で、神奈川県立第二中学校(現在の神奈川県立小田原高等学校)や前羽村(神奈川県足柄下郡にあった村。現在の小田原市)の消防団設立に当たって多大な寄付をしたり、前羽村国府津町の小学校で校医を務め、前羽村小学校に風琴(オルガン)を贈呈するなど地域発展にも度々尽力して住民達からはとても尊敬された医者でした。

 

浅羽佐喜太郎ベトナム独立運動の指導者、ファン・ボイ・チャウとの出会い

 

20世紀初頭、東遊(ドンズー)運動と呼ばれる日本を舞台にしたベトナムの革命運動がありました。

 

【東遊(ドンズー)運動】
日本の明治時代にあたる 十九世紀アジアの各国は欧米列強の侵略を受け、植民地化が進んでいました。ベトナムもフランス統治政府の厳しい圧制に民衆は苦しんでいました。

 

1905年(明治38)、日露戦争における日本の戦勝を聞いたベトナム革命組織・維新会代表のだったファン・ボイ・チャウらは、ベトナムの窮状を訴えて武器援助を求めるため、密出国をして来日します。

 

ファン・ボイ・チャウは野党 立憲改進党のリーダー大隈重信や大陸事情に理解の深い犬養毅を紹介されます。大隈や犬養らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることは無く、それより人材育成が先であることや、運動の象徴であるベトナム皇族のクォンデ候を早く日本に迎えるよう促します。筆談ながら、国の未来を賭けたで誠心誠意な議論に、同席した柏原文太郎は三国志の話を聞くようであったと、チャウの人柄に大きな魅力を感じています。

犬養は陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々長の根津一らと相談し、最初の留学生4人を中国人の為の軍人養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する中国人のための学校「東京同文書院」へ入学させます。
 

日本の実情が解るに従い、ベトナム民衆との意識の格差に愕然としていたファン・ボイ・チャウは、(ベトナム国史)、(遊学を勧むる文)、(海外血書)などを次々と書き上げベトナムに送り込みます。

これを読んだベトナム青年達が、続々と日本留学のため来日してきます。東京同文書院はこれらの留学生のために教室や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科をつくってベトナム留学生を受け入れました。

 

最盛期の1908年 明治41年には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学びました。

ベトナム本国では、維新会が宣伝文書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組織的に担当しました。

 このような反仏の動きに危機感を持った仏統治政府は、この時期留学生の親族や支援者に対し摘発を進めていました。

日仏同盟の締結で仏政府の強い要請を受けた日本政府は、1908年 明治41年の秋、留学生に解散命令を出します。この為、多くの留学生は日本を離れますが、残った留学生を抱えたチャウは、資金も底をつき生活は困窮を極めていました。

 

1907年 明治40年、故郷・東浅羽村に帰っていた浅羽は、道端で行き倒れになっていた、フランス領インドシナ民主化運動家だったグエン・フォン・ディ(Nguyễn Thái Bạt)を助けます。

そしてグエンに対して東京同文書院(後の東亜同文書院大学)への入学手続きや学費まで支払い、金銭的な援助をします。このことからやがて、同じフランス領インドシナの民主主義運動家、ファン・ボイ・チャウの耳に入り、2人の交流が始まることになります。

 


浅羽佐喜太郎の支援と日本退去】 
 借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志のグエン・フォン・ディを助けたばかりでなく、東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないとグエン・フォン・ディに相談をします。グエンの件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。
 

ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、グエンに書状を託します。しかし、公のこれまでの厚志に何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。

なんと 朝持たせた手紙の返事が夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金が出てきました。

(この1700円という金額、当時の一円は、現在の価値で約3800円に相当し、佐喜太郎が持たせた金額は、現在価値で640万円以上になります。)

 

その手紙には~『手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。』~とほんとうに簡潔で温かい言葉が添えられていました。
 

1909年 明治42年3月、クォンデ候とチャウは日本政府から国外退去を命令されます。

10日以内の退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。

グエンに紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、佐喜太郎は早々にチャウの手をとり招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲みよく談じ、チャウらを守れなかった大隈や犬養を酷評します。
 

退去から9年後、1918年 大正7年 ファン・ボイ・チャウが日本の土を踏んだ時には佐喜太郎はすでに結核で亡くなり、佐喜太郎への報恩のために懸命な姿に感銘を受けた浅羽村の村長らも動き出し、建立されたのが、現在、静岡県浅羽町梅山の常林寺にある大きな記念碑です。

 

 浅羽佐喜太郎 公記念碑~現代釈~

 

我らは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今に類なき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海を見つめて、我らの気持ちを、どの様に、誰に、訴えたらいいのか。此処にその情を石に刻む。
 

 

浅羽佐喜太郎公碑~原文

 

豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。

— 大正七年三月、越南光復会

 



ベトナム語
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ファン・ボイ・チャウのその後…

帰国後、清国上海で政治運動を続けますが、フランス官憲に逮捕され、終身刑の判決を受けるも、ベトナム民衆の猛反発を受け、恩赦として自宅軟禁に。

1967年昭和42年 自宅で死去。72歳

 

 

先週、油山寺で手にしたガイドマップに、

ベトナム建国の父、ファン・ボイ・チャウを支援した浅羽佐喜太郎の記念碑という説明が常林寺にあり、建国の父は、ホーチミンじゃないか?と疑問を持ち、今日訪ねることにしました。

彼は、ホーチミンに先立つこと約30年前に運動してた人だということを学びました。

 

昨年、天皇皇后両陛下がベトナムを訪問され、フエ市にあるファン・ボイ・チャウ記念館を訪れられ、記念碑に献花されました。

 

また、今年 2018年は、日本とベトナムの国交樹立45周年、また、ファン・ボイ・チャウの手により浅羽佐喜太郎記念碑が建立されて100周年の節目にあたります。