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歴史好きで、各地の史跡を訪ねる紀行ブログ

北海道地名由来史 7 余市町


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余市町カントリーサイン

 

余市町   ~よいち ちょう~

 

道央地域の後志(しりべし)支庁管内の余市町は、観光都小樽市の西隣に位置しています。

 

余市町は時代によって様々な特色を見せた町で、古くは縄文時代のものとされるストーンサークル~環状列石や、洞窟(フゴッペ洞窟)に壁画や石器、石斧が発見されたことにより、北海道内でも古く、人の痕跡が遺された地域でもあります。

 

余市の町が繁栄し始めたのは、江戸時代の初期、松前藩松前慶広がニシンの豊漁の漁場といわれる余市に上ヨイチ場所、下ヨイチ場所(場所~現在の漁協みたいなもの)と二ヶ所の漁場の拠点の設置を命じた頃からで、余市に藩御抱えの場所請け負い人が漁場を指揮して藩の懐を太らせ、この漁場の場所制度は武士の世が終わる明治維新まで続きます。

 

幕末~明治維新の時代の波は、余市の町にも荒波を起こしました。

幕末、江戸時代の終焉を告げた戊辰戦争幕府軍有志、東北諸藩と共に薩摩、長州を中心とした新政府軍と戦った会津藩は、鶴ヶ城での壮絶な籠城の末に降伏し、逆賊の汚名を着せられ敗れました。

 

戦に敗れた会津藩士は、江戸での謹慎を経て、多くが東北 青森の下北半島の不毛の地に設置された斗南藩として送られる者、また、新政府の北海道開拓を担う先兵として、余市にも旧会津藩士を送りました。

刀から鍬へと持ち替えた旧会津藩士は、慣れないながらも必死に糧を得るべく働くも、生活が楽になることはなく、また、古くから余市に住む住民達からは逆賊と罵られ、家族の者が亡くなっても、寺からは葬式も断られるなど、苦難に耐える生活が五年余り続いた明治8年、旧会津藩士らに政府の役所~開拓使から、育つかどうかわからぬが…と数種の苗の木を渡されます。

 

彼らは苗木を植えるも、開墾すら上手く進まないのに…と疑いながらも苗を育てました。

そして3年目の春に初めて花が咲き、翌年の1879年 明治12年の秋に苗木は赤いリンゴを実らせました。

 

リンゴを実らせた赤羽源八は旧会津藩士で、彼の家の庭先に植えられた木から6個の実が収穫され、この実は、勤王の志を持ちながらも逆賊の汚名を着せられた自分を含む会津藩と、藩主 松平容保京都守護職の要職にあった当時、時の帝~孝明天皇から賜った緋(紅色)の御衣に因み、【緋の衣】と名付けられ、翌年以降も実を実らせて収穫は安定する様になり、遂には海外への輸出品として大きい収益を上げるまでに成長し、旧会津藩士の意地と誇りを見せつけることとなりました。

 

昭和9年、リンゴとニシンの町 余市に、一人のウイスキー職人がやって来ます。

職人の名は竹鶴政孝

大阪の洋酒製造販売会社 寿屋(現在のサントリー)で山崎蒸留所の初代所長を務めた人物で、理想のウイスキー作りを夢見て、ウイスキーの生まれたスコットランド余市の気候風土がそっくりな事から、寿屋を退職して余市にやって来ました。

竹鶴は、当初はすでに余市名産となっていたリンゴでジュースを作るとして出資者らの了解を得て資金を募り、大日本果汁株式会社【後のニッカウイスキー】を設立し、愛妻のイギリス人妻 リタと二人三脚で紆余曲折の苦難の末に理想のウイスキー作りを実現させました。

余市の名主となった竹鶴政孝は、町議会議員などを歴任し、彼の一声で高校のグラウンドに造成されたスキージャンプの山は、竹鶴シャンツェと呼ばれ、この山で練習したニッカウイスキーの社員だった笠谷幸生札幌オリンピックで金メダルを獲得し、金銀銅を独占した日本は日の丸飛行隊と称えられ、また、長野オリンピックで個人、団体で金メダルを獲得した船木和喜、同じく団体で金メダルを獲得した斎藤浩哉も竹鶴シャンツェに併設された笠谷シャンツェでジャンプを練習しました。

 

 

 

最後に余市町の名の由来ですが、アイヌ語で【ユーチ】~ヘビのいるところの意味だと言われてます。

ニシン、リンゴ、ウイスキーと、余市の名産のそれぞれに人々の物語があります。