歴史紀行 15 - 1 叡福寺 1 太子廟
叡福寺 参道
太子廟
叡福寺 太子廟
叡福寺の創建は、西暦620年 推古天皇28年、聖徳太子が民情視察を兼ねて愛馬 黒駒で駆けていたところ、磯長(しなが)の地を気に入り、自らの墓所とすることを決めたことから始まります。
翌年の621年、太子の生母、穴穂部間人皇后が病に倒れます。太子と正室 膳部苔岐々美郎女(かしわでのほききみのいつらめ)の必死の看病も実らず帰らぬ人となり、磯長の地に埋葬されて円墳が築かれました。
年が明けて622年、 続いて太子と妃も病を発症して倒れました。 2月21日、妃が亡くなり、翌日 2月22日には太子自身も帰らぬ人となりました。余りに早い病の発症から伝染病かと思われます。
太子が生前に墓所と決め、母が葬られた磯長の円墳に太子と妃も共に埋葬されます。
ひとつの円墳に三者が共に埋葬されたことになり、推古天皇は、太子の霊をなぐさめるべく、墓守を配し、坊堂を建立して香華寺としたのが始まりとされています。
歴史 今日の出来事 1561年10月17日(永禄4年) 第4次川中島の戦い
信玄 謙信 一騎討ちの像
1561年10月17日(永禄4年9月9日)、1553年天文22年から三度に渡って勃発してきた越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄による川中島の戦いがこの日、4度目の激突となりました。
半月以上 妻女山に陣取り、武田軍の動きを観ていた上杉謙信は、海津城から昇る炊煙がいつもと違うことから出陣があることを察知、八幡原に本隊を配置した武田軍が、別動隊が突くことを見破ります。
二手に分かれた武田軍の本隊を叩くべく夜陰に乗じて妻女山を降りた上杉軍、夜明けの霧が晴れた時に武田軍の眼前に上杉軍が現れたため、武田軍は動揺し、序盤戦は上杉軍が圧倒しました。
二万の軍勢の一万二千を妻女山に向けた武田軍に対して、全軍を八幡原に集中した上杉軍は約五千の兵力差があり、武田軍は防戦に終止します。
武田の本隊も危なくなる中、信玄の実弟 信繁や重臣 諸角虎貞らが戦死、妻女山を突こうとした武田軍別動隊が急ぎ八幡原に雪崩れ込んだため、挟み撃ちを警戒した上杉謙信は軍の退却を決めました。
最大の戦いとなった四度目の激突も、決着がつかないまま終了し、八幡原は両軍の約六千もの屍が残されました。
静岡紀行 8 静岡ホビースクウェア ~静岡市駿河区~
~模型の世界首都 静岡から最新ホビーの情報発信。~
静岡ホビースクウェアは、
全国のホビー市場のおよそ3/4を占める静岡に、2010年7月から8ヶ月間にわたり、静岡の地場産業とも言える模型のさらなる市場の拡大とファンの開拓を目指して開催された静岡ホビーフェアの成功を経て、ホビーフェアの閉幕から3ヶ月後、主に静岡のホビーメーカーの新商品や最新情報を常設展示する博物館として、静岡駅南のサウスポット静岡にオープンしました。
サウスポット3階にオープンしたホビースクウェアは静岡市により無償貸与され、運営はタミヤとバンダイの静岡の二大模型メーカーが中心となったホビー推進協議会静岡を母体に、オフィシャルショップ、工作室、展示室などを併設し、ホビーファンに最新の製品と情報発信をしています。
静岡のホビーの歴史は、日本でもっとも古く、戦前の木製模型時代から遡れば半世紀以上の歴史があります。
戦前には、木製模型の航空機模型などを制作。
やがて、より精巧な再現が可能となるプラスチックに注目が集まり、
静岡県では、昭和30年の県内の模型メーカーが結集し「静岡模型教材協同組合」が設立します。
1959年 昭和34年、徳川慶喜公の屋敷だった浮月楼で製品の展示会 第一回生産者見本市が開催され、現在まで続くホビーショーの始まりとなりました。
1960年 昭和35年12月15日、日本で国産初のプラモデル~潜水艦ノーチラス号が発売。木製模型を上回る精密さや簡単に組み立てられるプラモデルは人気を集め、静岡県の木製模型メーカーもプラモデルへの転心を余儀なくされました。多くのプラモデルが作られるなかで、テレビの普及とともにキャラクターモデルが発売。その後も70年代のスーパーカーブームやスター・ウォーズ、さらに80年代に入ると、人気アニメ 機動戦士ガンダムのプラモデルが爆発的ヒットとなり、それ以降 アニメモデルが人気ラインナップとなり、続々と各メーカーから個性豊かな商品が生まれ、子どもたちに夢と驚きを与えました。
今や静岡の模型の出荷額は全国シェアの大半を占めるに至り、その歴史の長さと圧倒的なシェアから、 静岡は【模型の世界首都】として世界中の模型ファンが集まる街へと認知され、海外からも注目されています。
静岡ホビースクウェアの常設展示の主役となるのは、静岡を代表する模型メーカー各社の製品や静岡の歴史が詰まった伝統工芸品の数々も含まれ、プラモデルに留まらず、精巧な木製模型も展示され、 長い歴史を持つ静岡の文化の魅力を再発見することができます。 また、イベントゾーンでは様々なイベントを開催。大人から子どもまで夢中になれるスペシャルイベントも年に数回開催され、 常に進化を続ける静岡発のホビー情報を発信しています。
歴史紀行 12 中宮寺
中宮寺は、法隆寺東院のさらに東の斑鳩宮の隣接地に聖徳太子が母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために創建した寺です。
僧寺である法隆寺、中宮寺は尼寺として創建され、塔と金堂が建立されたといいます。
微笑を浮かべながら軽く頬杖をついて瞑想する姿の本尊 国宝【菩薩半伽像】は飛鳥時代最高傑作とされ、エジプトのスフィンクス。ダヴィンチのモナリザ。とともに、世界の三大微笑像とも呼ばれます。
中宮寺は、太子の没後、後継者の上宮王家一族が蘇我入鹿の手により滅んだ後に衰退し、平安時代には一堂のみという状態に陥り、廃寺寸前の尼寺として細々と残りました。
現在の本堂は、昭和43年 高松宮妃殿下の発願により再建が進められ、妃殿下は、寺の万一のことがあれば御心痛遊ばすと、耐震耐火の御堂をと念願し、コンクリート製の御堂での再建となりました。