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歴史好きで、各地の史跡を訪ねる紀行ブログ

偉人の言葉 3 坂本龍馬



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坂本龍馬

 

~君がため   捨つる命は 惜しまねど  心にかかる  国の行く末~

 

坂本龍馬大政奉還後、越前の松平春嶽を訪ねた際に、藩士 由利公正との酒宴の席でうたった歌。

由利公正~龍馬が二度に渡り、遠路遥々 越前に赴いたのは、賢候の誉れ高い藩主 松平春嶽の存在もさることながら、経済通で春嶽の側用人だった由利と妙に気が合ったこと。

 

二度目の訪問では、龍馬は由利と同宿し、早朝から夜遅くまで日本の将来について語り合った。

龍馬帰京から数日後の11月15日、由利は龍馬の手紙を懐からうっかり落としてしまう。

同じ頃、龍馬は近江屋で暗殺される。

歴史紀行 11 ③ 橘 寺 聖徳太子愛馬 黒駒 像 二面石


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歴史紀行 11 ③ 橘 寺 聖徳太子 愛馬 黒駒 像、二面石

聖徳太子 愛馬 黒駒 像

 

 

聖徳太子の愛馬、黒駒は、598年 推古6年 太子が全国に向けて馬を献上するように命じた際に、太子が甲斐国(現在の山梨県)から献上された脚の白い黒毛の馬をたいそう気に入りました。
黒駒という名馬を太子は舎人(とねり)に躾(しつけ)をさせ、やがて斑鳩の里に宮殿を造営した太子は都のある飛鳥へ通う道を黒駒を駆けて走りました。

聖徳太子伝暦によると、以来 太子の上宮王家と黒駒の馬産地の甲斐国巨磨郡は、深いつながりをもち、とりわけ富士山から巨磨地方には、太子の伝説が数々残ることとなり、太子が黒駒に股がって富士山に登り、三日をかけて大和から甲斐を往復したという逸話が伝わります。

 

 

二面石

二面石は、右手に善人を表した右善面、左手に悪人を表した左悪面と、人間の心を表したとされる飛鳥時代のものです。

北海道地名由来史 7 余市町


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余市町カントリーサイン

 

余市町   ~よいち ちょう~

 

道央地域の後志(しりべし)支庁管内の余市町は、観光都小樽市の西隣に位置しています。

 

余市町は時代によって様々な特色を見せた町で、古くは縄文時代のものとされるストーンサークル~環状列石や、洞窟(フゴッペ洞窟)に壁画や石器、石斧が発見されたことにより、北海道内でも古く、人の痕跡が遺された地域でもあります。

 

余市の町が繁栄し始めたのは、江戸時代の初期、松前藩松前慶広がニシンの豊漁の漁場といわれる余市に上ヨイチ場所、下ヨイチ場所(場所~現在の漁協みたいなもの)と二ヶ所の漁場の拠点の設置を命じた頃からで、余市に藩御抱えの場所請け負い人が漁場を指揮して藩の懐を太らせ、この漁場の場所制度は武士の世が終わる明治維新まで続きます。

 

幕末~明治維新の時代の波は、余市の町にも荒波を起こしました。

幕末、江戸時代の終焉を告げた戊辰戦争幕府軍有志、東北諸藩と共に薩摩、長州を中心とした新政府軍と戦った会津藩は、鶴ヶ城での壮絶な籠城の末に降伏し、逆賊の汚名を着せられ敗れました。

 

戦に敗れた会津藩士は、江戸での謹慎を経て、多くが東北 青森の下北半島の不毛の地に設置された斗南藩として送られる者、また、新政府の北海道開拓を担う先兵として、余市にも旧会津藩士を送りました。

刀から鍬へと持ち替えた旧会津藩士は、慣れないながらも必死に糧を得るべく働くも、生活が楽になることはなく、また、古くから余市に住む住民達からは逆賊と罵られ、家族の者が亡くなっても、寺からは葬式も断られるなど、苦難に耐える生活が五年余り続いた明治8年、旧会津藩士らに政府の役所~開拓使から、育つかどうかわからぬが…と数種の苗の木を渡されます。

 

彼らは苗木を植えるも、開墾すら上手く進まないのに…と疑いながらも苗を育てました。

そして3年目の春に初めて花が咲き、翌年の1879年 明治12年の秋に苗木は赤いリンゴを実らせました。

 

リンゴを実らせた赤羽源八は旧会津藩士で、彼の家の庭先に植えられた木から6個の実が収穫され、この実は、勤王の志を持ちながらも逆賊の汚名を着せられた自分を含む会津藩と、藩主 松平容保京都守護職の要職にあった当時、時の帝~孝明天皇から賜った緋(紅色)の御衣に因み、【緋の衣】と名付けられ、翌年以降も実を実らせて収穫は安定する様になり、遂には海外への輸出品として大きい収益を上げるまでに成長し、旧会津藩士の意地と誇りを見せつけることとなりました。

 

昭和9年、リンゴとニシンの町 余市に、一人のウイスキー職人がやって来ます。

職人の名は竹鶴政孝

大阪の洋酒製造販売会社 寿屋(現在のサントリー)で山崎蒸留所の初代所長を務めた人物で、理想のウイスキー作りを夢見て、ウイスキーの生まれたスコットランド余市の気候風土がそっくりな事から、寿屋を退職して余市にやって来ました。

竹鶴は、当初はすでに余市名産となっていたリンゴでジュースを作るとして出資者らの了解を得て資金を募り、大日本果汁株式会社【後のニッカウイスキー】を設立し、愛妻のイギリス人妻 リタと二人三脚で紆余曲折の苦難の末に理想のウイスキー作りを実現させました。

余市の名主となった竹鶴政孝は、町議会議員などを歴任し、彼の一声で高校のグラウンドに造成されたスキージャンプの山は、竹鶴シャンツェと呼ばれ、この山で練習したニッカウイスキーの社員だった笠谷幸生札幌オリンピックで金メダルを獲得し、金銀銅を独占した日本は日の丸飛行隊と称えられ、また、長野オリンピックで個人、団体で金メダルを獲得した船木和喜、同じく団体で金メダルを獲得した斎藤浩哉も竹鶴シャンツェに併設された笠谷シャンツェでジャンプを練習しました。

 

 

 

最後に余市町の名の由来ですが、アイヌ語で【ユーチ】~ヘビのいるところの意味だと言われてます。

ニシン、リンゴ、ウイスキーと、余市の名産のそれぞれに人々の物語があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偉人の言葉 1 聖徳太子


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偉人の言葉

歴史に名を残した偉人たちは、その業績の善し悪しに関わらず、後世に語り継がれるような言葉を残しているものです。

このカテゴリーでは、偉人の残した言葉について書きたいと思います。

まずは、ぼくが最近 継続的に調べている聖徳太子です。

聖徳太子は、大きく三つの偉業を成しました。

冠位十二階の制度

十七条憲法

仏教文化の導入

ここでは、太子が起草し、形作った日本初の憲法となった十七条憲法を取り上げます。

 

 

偉人の言葉 1 聖徳太子

十七条憲法

1
一に曰く(いわく)、
和をもって貴しとし、
逆らうことなきを宗とせよ。

人は皆、党(たむろ)あり。
また、達(さと)れる者少なし。

ここをもって、あるいは君父に従わず、
また、隣里に違う(たがう)。
しかれども、
上和らぎ、下睦びて、事を論う(あげつらう)に詣う(かなう)ときは、事理自ずから通ず。
何事か成らざらん。

 

 

 

簡潔現代尺~
【和を大切にして、人と争わないようにしなさい。】

歴史紀行 11 ② 橘 寺 観音堂


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歴史紀行 11 ② 橘 寺 観音堂

 

奈良県高市郡明日香村 橘

橘寺 観音堂は、度重なる火災、兵火により焼失を重ねた橘寺の本堂として江戸時代後期の1777年安永6年に建立された堂宇で、幕末期に人々の寄付により太子殿が本堂として再建されたため、藤原京時代に建立された本尊の如意輪観世音菩薩座像を安置する堂宇として使われました。

 

 

静岡紀行 7 静岡ホビーショー ~静岡市駿河区~


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静岡ホビーショー ~静岡市駿河区曲金~

 

 

静岡ホビーショーは、
【模型の世界首都、静岡から最新ホビーの情報発信】を歌い文句に、国内模型メーカーの多くが、毎年5月の大型連休明けの翌週に、木曜日~日曜日までの四日間の日程で、前半2日間は企業向けの商談、そして土日は一般に開放され、多くの模型ファンや家族連れで賑わいます。

静岡が模型、ホビーの街として発展した原点は江戸時代にさかのぼります。

江戸に幕府を開いて武家政権の頂点として征夷大将軍になった徳川家康は、早々に将軍職を三男の秀忠に譲り、自らは大御所となり、隠居の身として江戸から約50里(約200キロ)離れた駿府(静岡)に駿府城を築城しました。

家康公の駿府城築城、2代将軍 秀忠は家康公の廟所~久能山東照宮を創建、3代将軍 家光は浅間神社の造営と、これらの工事に際して全国から優秀な職人達が多く駿府に集められました。

とくに浅間神社の造営には60年を費やしたため、職人達は何代にも渡って駿府に住み着き、技術者の育成を地元の職人に伝えていきました。
これらの技術の育成は、建築技術の育成に留まらず、竹ひごを念密に編上げる竹千筋細工、釘などを一切使わない木製品の駿府指物轆轤(ろくろ)で木を回しなからくりぬいて作る挽物、漆塗りの駿河漆器駿河蒔物など、精巧な伝統工芸品の数々の継承が今日のホビーの街、静岡への発展へと繋がりました。

1959年(昭和34年) 静岡ホビーショーの前身となる(第1回静岡生産者見本市)が、静岡駅近くにある徳川慶喜公の屋敷跡で、現在は料亭の浮月楼静岡模型教材協同組合加盟9社(静岡教材社・長谷川製作所青島文化教材研究所静岡理工社渥美産業田宮模型教材社・フジミ模型・今井商店・富士模型教材社)により一般には非公開で開催されました。

第4回からは、プラモデルを中心とした見本市となり、1989年 平成元年に駿河区曲金3丁目に静岡産業館【現在のツインメッセ静岡】が竣工すると以後、メイン会場として開催され、新商品のイベントや展示、一般モデラーの作品展示の会場として認知されています。

今年で57回を迎えたホビーショーは、タミヤ、ハセガワ、バンダイなど、出展メーカー17社、協力、協賛メーカーは60社を超える一大イベントとなりました。